蝦夷生計図説

アユウシアマヽの図

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アユウシアマヽの図

いふ事にはあるへからす、

是を 本邦禾穀のうちに考るに、今いふ田稗なるへし、田稗と
いへる物は田のミに限らす、すへて痩湿の地
には、植る事をまたすして生熟するものにて、
今の世の人はたゝよのつねの野草と同しもの
よふにおほへたる事也、されと上古の時、禾穀の類の
いまた豊穣ならさりしには、これらの類をも
作り用ひたる事なるへし、其後禾穀の類の
ゆたかになりしよりおのつからこれらの類は
麁細なる物として作れる者もなく、たゝ奥羽
ならひに松前とふの辺地にてのミ稀に作れる
事にハなりたるとミゆる也、蝦夷稗の名を得たる

いる。他の穀類とは異なり、土地の肥瘠に関わらずよく稔り、凶作知らずであるという。

「蝦夷稗」という呼び名は、これが本邦原産ではなく蝦夷地から伝来したものであることによって、そう称されているという訳ではないだろう。我が国に生育する禾穀類のなかに、現在「田稗」というものがあるが、おそらくそれを指すものと考えられる。「田稗」は田にのみ生育するのではなく、湿地でさえあれば、手をかけるまでもなく成熟するものである。従って今では、普通の野草と同じもののように考えられている。しかし、禾穀類がまだ豊穣ではなかった上古の時代には、「田稗」の類も栽培され用いられていたことであろうと考えられる。その後禾穀類が豊かになったことにより、「田稗」の類は取るに足らないものとして、自然と栽培する者もいなくなり、僅かに奥羽ならびに松前といった辺境の地で稀に作られるのみとなったと見ることができる。「蝦夷稗」という名がついたのは