蝦夷生計図説

アユウシアマヽの図

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アユウシアマヽの図

夷人の食は、鳥獣魚とふの肉を専らに用ると
いへとも、不毛の地にして禾穀の類のたえて
生する事なしといふにはあらす、又禾穀の
類をうへて食する事なしといふにも非す、

こゝに図する所はすなハち稗の一種にして、
烏禾の類也、これは蝦夷のうちいつれの地
にても作りて糧食の一助となす事也、

   但し、極北の地子モロ・クナシリ島なといへる所の
夷人の如きは、かゝる物作れる事あらす、これは
ひとしく蝦夷の地なりといへとも、殊に辺辟
たるにより、その闢けたる事もおそくして、
未かゝる物なと作るへきわさは知るに及ハさるゆへ也、

絶て米穀の類の生セさる地といふにハ
非す、すてに 本邦の人の行きて住居する
ものは、麦あるは菜・大根とふを作るによく生
熟する事也、

是をアユウシアマヽと称す、アユとは刺をいひ、ウシ
とは在るをいひ、アマヽは穀食の通称にして、
刺のある穀食といふ事也、この稗の穂には
刺の多くある故にかくはいへる也、夷人の伝言
するところは、この国闢けし初め天より火の神
降り□ひて、此種を伝へたまへり、それよりして
かく作る事にはなりたるよし也、然るゆへに
是を尊ふ事大かたならす、其作り立るより
食するに至るまてのわさことに心を用るなり、
其次第は後の図に委しく見へたり、是より
出たる糠といへともミたりにする事あらす、

其捨る所を家の側らに定め置き、ムルクタウシ
カモイと称して、神明の在るところとなし、尊ミ
おく事也、これまた後の図にミえたり、此稗を
奥羽の両国及ひ松前の地にてはまれに作れ
る者ありて、蝦夷稗と称す、外の穀類には
似す、地の肥瘠にかゝはらすしてよく生熟し、
荒凶の事なしといへり、其蝦夷稗と称する
事ハ 本邦の地には無き物にして、蝦夷
の地より伝へ来りたるによりてかく称すると
いふ事にはあるへからす、

是を 本邦禾穀のうちに考るに、今いふ田稗なるへし、田稗と
いへる物は田のミに限らす、すへて痩湿の地
には、植る事をまたすして生熟するものにて、
今の世の人はたゝよのつねの野草と同しもの
よふにおほへたる事也、されと上古の時、禾穀の類の
いまた豊穣ならさりしには、これらの類をも
作り用ひたる事なるへし、其後禾穀の類の
ゆたかになりしよりおのつからこれらの類は
麁細なる物として作れる者もなく、たゝ奥羽
ならひに松前とふの辺地にてのミ稀に作れる
事にハなりたるとミゆる也、蝦夷稗の名を得たる
事は、今に及ひては専ら蝦夷の地にてのミ
作り用ゆる事よりして、おのつからかゝる名を
唱ふるなるへし、其形ちの如きまさしく田稗と
露たかふ事なしといふにハあらねと、これハ人の
手によりて其生熟の性をとくると、たゝ原野荒
草のうちに混して生するによりておのつから
形ちに少しくかハれるさまのあるなるへし、しか
りといへともひとしく稗の一種にして、 
本邦の地にも生し、蝦夷の地にも生するといへ
る事はいさゝか疑うへき事に非す、是のミにあらす、

近き頃に至りてハ、蝦夷のうち極北の地に
あらさるところは粱・稗・大根・菜とふを
本邦の人より伝へて作れる夷人ことに多し、

   蝦夷のうち、シリキシナイなといへる所よりサル
なといへる所迄の夷人は、ことーーく作る事也、

これを糧食に供する事も、よのつねの魚鳥の
肉とふに比すへきものにはあらすといひて、其尊ひ
重んする事甚厚し、凡そこれらの事に
よらんには、いかんそ蝦夷の地にしては禾穀の
類の生する事なく、蝦夷の人は禾穀の類を
食する事なしとはいふへき、

アイヌの人々の食についてであるが、専ら鳥や獣や魚の肉をそれにあてている。しかし、だからといって彼らの住む土地が不毛であり穀類の生育を見ないというわけではない。

ここに掲げた図は稗の一種「烏禾」の仲間である。この作物は、蝦夷地一円に栽培されているもので、糧食の一助として用いられている。

* 但し、蝦夷地の内でも最も北に位置するネモロ(根室)やクナシリ(国後)島などといった地域のアイヌの人々は、こうした作物を栽培することはない。なぜならば、同じ蝦夷地とはいえ、根室や国後島は格別辺鄙な地であり、その開闢も遅く、いまだに作物を栽培する技術を知るに至っていない
からである。

また、蝦夷地はまったく米穀の類が生育しない地であるというわけでもない。実際、既に「本邦の人」が来住している地域では、麦または菜・大根等を栽培しており、よく成熟する様子が見られる。

この図に見える稗の一種は、アユウシアママと称されるものである。「アユ」とは刺のこと、「ウシ」は「在る」を表わし、「アママ」は穀類の通称で、つまり「刺のある穀物」という意味の言葉である。この稗の穂に刺が多くあるため、このように呼ばれている。アイヌの人々の伝承によれば、国の開けし初め、天から火の神が降臨なされ、この種をお伝えになり、それ以来栽培するようになったということである。そういう由緒を持つことから、アイヌの人々はこの作物を非常に尊んでおり、
栽培から
食するまでの作法には、ことさら心を用いるのである。その作法の次第は、後掲の図に詳しい。彼らはそこから出る糠といえども粗末にすることはない。

棄てる場所を家の傍らに定めておき、ムルクタウシカモイと称し、神明のいますところとみなして、尊ぶのである。この様子も、後に掲げる図に見えるので参照されたい。
この稗についてであるが、奥羽の両国ならびに松前の地では稀に栽培する者がいて、「蝦夷稗」と称されている。他の穀類とは異なり、土地の肥瘠に関わらずよく稔り、凶作知らずであるという。

「蝦夷稗」という呼び名は、これが本邦原産ではなく蝦夷地から伝来したものであることによって、そう称されているという訳ではないだろう。我が国に生育する禾穀類のなかに、現在「田稗」というものがあるが、おそらくそれを指すものと考えられる。「田稗」は田にのみ生育するのではなく、湿地でさえあれば、手をかけるまでもなく成熟するものである。従って今では、普通の野草と同じもののように考えられている。しかし、禾穀類がまだ豊穣ではなかった上古の時代には、「田稗」の類も栽培され用いられていたことであろうと考えられる。その後禾穀類が豊かになったことにより、「田稗」の類は取るに足らないものとして、自然と栽培する者もいなくなり、僅かに奥羽ならびに松前といった辺境の地で稀に作られるのみとなったと見ることができる。「蝦夷稗」という名がついたのは現在ではそれが専ら蝦夷地でのみ作られることから、自然とその名が唱えられるようになったためであろう。「蝦夷稗」の形状は、「田稗」とまったく同様というわけではない。しかし、これは栽培により成熟したものか、原野で野生の植物の中に混じって生育するものかによって、自然とその形状に少々の相違が生じてきたためと捉えられる。但しそうであっても両者は稗の仲間の同一種であり、我が国の土地にも生育し、蝦夷地にも生育するものであるということは、まったく疑う余地がないのである。

なお、近年では蝦夷地で栽培される作物のはこれのみではなく、極北の地を除き、粱・稗・大根・菜などを「本邦の人」から伝えられて作るアイヌの人々が少なくない。

*蝦夷地のうちでも、シリキシナイ(尻岸内)という所からサル(沙流)という所までに住むアイヌの人々は、皆作物の栽培を行なっている。

彼らが農作物を糧食に供する場合、主食である魚や鳥の肉等とは比較にならないものだとして、非常に篤く尊び重んじている。こうしたことから考えるに、蝦夷地には禾穀類が生じずアイヌの人々が禾穀類を食することはない、ということは誤りであるといえよう。